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「古事記」「万葉集」に始まる「大和の葛城山」から南北朝時代の「河内の金剛山」「太平記」への歴史は、ただちに明治維新史の序幕として重視されてきました。神話伝説の霊峰、修験道場としての葛城連山は、大和側には水分、一言主、御蔵、高鴨の式内社や、高宮、朝妻など奈良時代の寺院跡があり、河内側の建水分神社や、観心、河合、高貴、金剛の諸寺院は文化財の宝庫として広く知られています。金剛葛城山こそ神祇、仏教史研究上、まことに貴重な精神文化圏といわれています。

金剛山における修験道の模様が「葛嶺雑記」という嘉永ニ年に発行された書物によってその一部がうかがわれるが、葛嶺とは葛城山、今の金剛山脈である。この本は葛城を中心とした修験道の行場を記したものであって、その頃の山伏の間に葛城修行ということが盛んに行われていました。その行場とは和歌山県加太町の沖、友が島から和泉葛城山ー牛滝山ー岩湧山を経て金剛山頂に至り、さらに北に折れて今の葛城山ー二上山ー亀の瀬に終わるもので、この間の里程二十八里、二十八の行場あり、二十八の宿場あり、二十八品の経塚があった。これは法華経二十八品に因んで定められ、序品を友が島に、それより第一品、第二品と東へ来て、金剛山頂には第廿一品の如来神力品を納められ、北へ廻って第二十八品を亀の瀬で終っている。この行場の中心で、修行がくりかえされ、また山伏を育成し、世の中に修験道を布教し、民衆の幸福を祈ったのが葛城修験道であり転法輪寺はその総本山であったのであります。

徳川時代に発行された大和名所図絵
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